猿子園芸の始まり
元々は兼業農家で、牛や米、野菜などを育てていたが、父がハウスを作るために牛を売ったところから花栽培が始まりました。父は、以前に花市場に就職していたためまったくの始めての業界ではなかったものの、岩手では花が作られていない時代で、長野から花を持ってきていました。しかし、輸送に時間がかかるため、夏場の花は特に状態が悪く、長野の技術を岩手に持ち込んで花栽培を始めることにしました。最初はりんどうから始め、たくさんの種類の花を取り扱うように。当時は海外から植物を輸入できなかったため、北海道からゆりのタネを取って自分たちで増やして切り花にしていたそうです。後にオランダから輸入できるようになったことが、花栽培が軌道に乗った大きな要因でした。平成9年に法人化し、偶然ハウスの近くに地熱発電した温水が流れてくるようになったことで、冬も栽培できるようになり規模が大きくなりました。これによりゆりの花を育てる比率も大きくなっていきました。
有機農業の基礎
私は昔から農業には興味をもっていて、初めは作物を育てるのが好きだったのですが、高校在学中に生物工学に興味を持ち始めました。そこで、ゆりの品種改良や絶滅危惧種の増殖などを勉強していました。しかし、この時は全く家業を継ぐ予定ではありませんでした。高校卒業後も、最初は東京に憧れを抱いて大学進学と共に上京しましたが、より想像を超えるものを探し在学中も海外に足を運んでいました。
そんな中フェアトレードでコーヒー豆を輸入する会社からオファーがあり、有機農業でコーヒーの品質を上げるプロジェクトへ参加。コーヒー栽培に必要な日陰が、木の伐採によってなくなってしまっていたため、そこに木を植えて森をつくるアグロフォレストリーという方法をとりました。
その後、有機農業を学ぶためインドへ。しかし、途中乗るはずだった電車でテロが起き、学校が閉鎖。その結果、1か月半インドで放浪の旅をしましたが、その間に様々な農家に行き、土が痩せている状態での農業の仕方を学んできました。
さらなる経験
リサイクル堆肥での有機栽培を勉強中、ボリビアで生ごみのリサイクル技術を使ってトイレを作るプロジェクトのオファーを受けました。南米ではトイレでなく川で用を足す習慣で赤痢が流行っていました。川の中の病原菌をなくすことが必要でしたが、トイレを作っただけではその習慣がないために誰も使わないという問題がありました。そこで、町中の生ゴミやトイレの糞尿を持ち寄って堆肥を作り、その堆肥と交換できる専用チケットを配りました。畑のない人は農家でそのチケットと野菜を交換でき、農家は野菜と交換したチケットで堆肥と交換します。また、朝一番に子供たちを連れて生ゴミ収集パレード活動も行いました。子供たちはお手伝いをすることで、町の人からお菓子などのご褒美がもらえるため喜んでゴミ集めを手伝ってくれます。併せて、トイレと生ごみの講習を子供たちにすることによって、まずは子供達がトイレを使うようになり、それに伴い子供の両親も徐々にトイレを使うように。
このプロジェクトの成功が後の猿子園芸の有機栽培にもつながっています。
事業継承
大学卒業後は、東ティモール(コーヒー豆関連)で内定を貰っていました。しかし、卒業の前日に父から家を継いで欲しいと言われたことで、実家の後を継ぐことに決めました。平成19年21歳の頃です。
海外への思いが強く、当時いずれは海外で農業ができることを思い描いていました。今でもアジアの農民グループとつながっている組織に所属しており、その夢は途絶えていません。
学生時代から学んでいる有機農業をいまだに継続して勉強していて、ゆりも有機農業で作っていきたいと思っています。実際に猿子園芸のゆりの栽培では、勉強の甲斐あり、農薬が減ってきています。当時ゆり農家になろうとは思っていませんでしたが、今までの経験とリンクし着実に夢の道を歩んでいます。
これまでの様々な取り組みを活かし、「農業はこうあるべきだ」という思想に縛られず、興味のあることをこれからも突き詰めてよい商品をお届けしたいと思います。